リビドー と、言えば聞いたことがある人もいるかもしれない。
それは精神分析学的にイドと言われる無意識と密接に関係する「人間らしさ」を追求した果てであり
同時に、この世界では知的生物が主人公として生きるためには必要不可欠なエネルギーなのである。
どんなジャンルのどんな人種でさえ 今(now)を保つためには何かに縋らねばならない。
野性を捨てた者であるほど精神的依存は強く表面化する。すまし顔の秀才君や都会に住む彼氏も、常日頃から
形容しがたい膨大なエネルギーで 何かを強く求めている。
平凡的な生活を送るなんの変哲もないただの高校生が、突然豹変することだってあり得ない話ではない。
リビドーとは、幼くして親を失った子供や 初々しいカップルにのみ現れるわけではなく
両親ともに顕在していて現状に不満も無いはずの人間にも訪れる性(さが)なのだ。
リビドーは「性的衝動」と訳される外側へのエネルギーであるのに対し、
デストルドーは「死の欲動」と呼ばれる内側へのエネルギーである。
それは現代によくある無意味な自殺願望などとは違い、無意識が母体への回帰を本能的に強く願う現象。
本能と無意識のデストルドーが還ろう還ろうと魂をを内側へ引っ張ろうとし、
それに反発するかのように生命エネルギーのリビドーが 生きようと必死に外側へ魂を引っ張る。
平面であろうがリアルであろうが、この世に存在するものは後にも先にも皆母体を有す。
平面であれば母体は、例えば白い紙になる。そこに線と言うきっかけを与えることで新たな命が生まれるのだ
たとえファンタジーだけやってれば許される二次元でも、キャラクターに魅力を持たせ引き立たせるのは
結局のところ本能から成る欲動エネルギー。
それが無ければ男と女は惹かれあうこともなく、愛に恵まれなかった子供は親を求めることもせず、人間らしさを失くすだろう。
悪魔とは、そんな 日夜本能に抗う愚かな生物に快楽と言う帰路を示し堕落させ、
原始のスープへと仕立てあげてしまう料理人の事ではないか。
理性(心)を保てている間は自分と言う個が確立され、強い自我が見られる。
他人と己の境界線が存在している状態である。
自分が求めている対象を受け入れたければ、己の心を開かねばならない
それにも限度と言うものは存在し、生身では限界がある。
意識の中で、心の壁が開かれればどうか。 普段は脳が無意識的に扉を制御していたとすれば。
無意識の塊である夢を操ることができる夢魔は、うってつけの助言者になる。
知的生物を堕落させるプロフェッショナルは、どうすれば気持ちよくなれるかと言うことを主人公にあることないこと吹き込む。
そうして元々存在したデストルドーの内側へのエネルギーに、助長されたリビドーの意識的な外側へのエネルギーが加担され
表面の肉、細胞、身体は迷うことなく一本の道に沿って歩きだすようになる。
「ひとつになりたい」
肉という障害、自我という境界、それらを取り払えばそこには最大の快楽がある。
部屋の中であたためられて生まれおちる魂の行く末までガフは面倒をみない。夢魔の工作に気付く由もないのだ。
境界線を失った個は、自我が飽和状態になり 他の溶解した個と混ざり合う。
この世界ではそれがバッドエンドとされるため、主人公たちはそれぞれのシナリオクリアを目指し
悪魔のささやきからゲーム攻略を護る。
悪魔大公の無慈悲な計画により不完全な夢を与えられたミュータントと、その中に眠る混ざらなかった堕落の天使。
世界樹の枝を広げた先人達が子孫に残したこの物語はのちに、白と黒 両方の世界に多重世界の選択肢を増やす。
変わり映えしない日々を過ごし、毎日のように下校後ゲーセンに通う彼も
亡き母を想い愛に徹する、籠の中の鳥のような彼も
何一つとして不自由のない、幸せに満ちた彼も
人間とは違う世界に住む、皮肉屋の彼も
ある眼鏡が主催する、意識と無意識が繰り広げる舞踏会の参加者であるのだ。
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